制作ねぶた
2015年
市長賞
JRねぶた実行プロジェクト
津軽海峡 義経飛龍
悲劇の英雄、源九郎(みなもとのくろう)判官(ほうがん)義経(よしつね)。実の兄である源頼朝(みなもとのよりとも)から追われ、北へと落ち延びるも奥州平泉の地(岩手県平泉町)にて襲撃を受け自ら命を落とした。しかしそれより後、人々の間では「義経は生き延びてさらに北を目指した」と、まことしやかに伝えられてきた。
蝦夷地(えぞち)(北海道)へ渡ろうと、津軽半島の北の果て、三厩(青森県外ヶ浜町)へ辿り着いた義経だったが、津軽海峡は暴風が吹き荒れ、波高く、飲み込まれそうなほどおそろしい勢いで潮が流れている。とても船を出すことかなわず、進路を絶たれてしまった。そこで義経、肌身離さず持っていた観音像を波打ち際の岩上に置き、風波が治まるよう、三日三晩、一心不乱に経文を唱え続けた。
そして満願(まんがん)を迎えた夜明け。
義経の前に白髪の老人が現れ、三頭の神通力(じんつうりき)を持った竜馬(りょうめ)を与えると告げると、たちまち霞のごとくその姿は消えてしまった。岩の上から下りてみると、岩穴に三頭の駿馬(しゅんめ)が繋がれていた。授かりし竜馬に跨り、いざ蝦夷地へ向け荒れ狂う津軽海峡を翔け渡らんとする義経とその郎党 武蔵坊(むさしぼう)弁慶の姿である。
来年に控えた北海道新幹線 新青森~新函館北斗間の開通による青函圏(せいかんけん)の緊密な交流と更なる繁栄を願い奉るものである。
ねぶた制作/解説 竹浪 比呂央
マルハニチロ侫武多会
三国志 より 張飛 長坂橋 に吼 える
桃園の誓いで劉備(りゅうび)・関羽(かんう)と義兄弟の契りを結んだ、中国 三国時代の豪傑 張飛翼徳(ちょうひよくとく)は、一人で一万の兵に匹敵するといわれる程の勇猛さで、多くの武将から恐れられていた。
後漢末期、劉備軍は敵対する騎兵五千の曹操(そうそう)軍から追撃され、とうとう当陽県の長坂(ちょうはん)で追いつかれてしまう。曹操軍を阻止する為、張飛はわずか二十騎を率いて長坂橋(ちょうはんきょう)へ向かった。この橋を越えなければ劉備軍の所へ攻め入れないのである。張飛は一人その橋上へ立ち塞がった。そして、眼前に迫った曹操方の大軍に対し「我こそは張飛なり!勝負したい者は前へ出ろ!」と目をいからせ蛇矛(じゃぼう)を振り上げ、地鳴のような声で大喝した。
さすがの曹操軍も、この鬼のような迫力には怖れをなし、すごすごと退却するしかなかった。 すぐさま張飛は部下に橋を破壊させ、見事に自軍を危機から救ったのであった。
外敵から国を守るため、一人強大な勢力に立ち向かった張飛の勇姿に、困難が絶えない世の災いを払い、平和が続く事を祈り願うものである。
ねぶた制作/解説 手塚 茂樹
知事賞/
最優秀制作者賞
青森菱友会
つがる新田 信政公 と水虎様
水虎様というのは神様になった河童(かっぱ)のことである。
その昔、青森県の西に広がる津軽平野は沼地が多く、子どもたちの水難事故が相次いで起こっていた。 人々は河童が子どもたちを水に引きずり込んでいると信じていた。
江戸時代になり、弘前藩四代藩主、信政公の世。
信政公は豊かな国作りをすべく、津軽平野を次々と新田開発をしていき、いまの五所川原市からつがる市木造(きづくり)のあたりが新田となった。 この業績から、信政公は元禄(げんろく)年間(1688-1704)に大名七傑のひとりに数えられ、弘前藩の中興(ちゅうこう)の英主(えいしゅ)とされる。 田んぼとともにそこに住む人々も増え、津軽平野の新田地帯には百三十以上の新しい村が出来た。人口が多くなり、残された沼地や用水堰、小川の多いところでは、水難事故も増加の一途をたどった。これを河童の仕業として恐れた人々は、河童を鎮めるために神格を与え、「水虎様」という水難除けの神様として祀ることにした。 水虎様信仰はつがる市木造の実相寺(じっそうじ)から始まったとされるが、津軽平野の水辺や道端、あちらこちらに水虎様はいまも祀られている。
こ河童といえば相撲好きな妖怪として知られるが、信政公も大の相撲好きで観戦のため城の敷地内に相撲場を造ってしまうほどであった。 そして相撲は日本のずっと昔から、神様に感謝を捧げる神事である。軍配を握る行事は信政公。邪気を払う四股を踏み、はっけよいと相撲を取るのは水虎様。 津軽平野の五穀豊穣そして水難防止を祈願する大一番である。つがる市合併十周年を寿ぎ祝いの出陣である。
ねぶた制作/解説 竹浪 比呂央